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『うっせぇわ・十五の夜・ギザギザハートの子守唄』を比較

2022年08月14日

『うっせぇわ・十五の夜・ギザギザハートの子守唄』を比較

 

見えてくるのは、思考的暴力と、肉体的破壊行動

どちらも、表現方法ではあるが、

後者の方が精神的にキツくない。

 

 

表面上「優等生」に見えるように生きてきた若者が、

大人たちの思う意味で「行儀の良い振る舞い」を強要されることに

嫌気が差すという話で、それ自体は昔から珍しいことではないのですが、

不満の具体的内容が多少現代的ではあります。

 

最初に感想を言っておくと、

世代の差もあって半分ぐらいしか共感はできないのですが、

この曲が日本の若者たちが抱えている、

心の叫びの1つなのだろうなと感じます。

 

 

曲の内容は、簡単に言ってしまうと、

もともと優等生で、気がついたらそのまま大人になっていた。

ルールとかマナーとかそんなの糞くらえ! みたいな感じの曲です。

今の若い人たちの感情が分かりやすく表れているのだろうとは考えられました。

 

「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、

実際には語られることのない本音である。

言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。

事が起こったときにはそれは終わっている。

コミュニケーションは必要とされない。

 

 

また、「ちっちゃな頃から優等生」というフレーズが歌詞中に

含まれていることから、

「ちっちゃな頃から悪ガキで」という歌い出しで知られるチェッカーズの

『ギザギザハートの子守唄』のオマージュなのではないか、という指摘もある。

 

 

ただ、

尾崎 豊さんの『15の夜』・『卒業』では「バイクを盗む」・「窓ガラス壊してまわった」

という犯罪行為『ギザギザハートの子守唄』では不良行為を歌っていたのに対し、

「うっせぇわ」では非行をしていないとして、

「尾崎よりよほどお行儀が良い」「(尾崎豊やチェッカーズには)被害者がいるけど、

うっせぇわ被害者いなくて安心して聞ける」といった声も聞かれている。

 

言葉や思考で抑え込んでも、「頭の中からは離れない」

この言葉が私的には、Adoさんの「うっせいわ」には、しっくりくる表現なのです。

 

昔の尾崎豊さんの時代なら、

バイクを盗んで走り出すといったように行動に表すことができた。

しかし、今は、親に言われるがまま優等生のように育って、

自分の本音を吐き出すことが苦手な人も多い、と私は考えています。

親など大人に何かを自分から言ったとしても、

結局、「それはダメだから」とか「何とかしなさい」と言われて終わってしまう。

そして、「自分がどうしたいから、これをやったのか」とか

「なんでこれをしたのか」といった理由には触れずじまいになる。

結果として、自己主張することがすごく苦手になってしまいます。

ですので、そのまま大人になって、急に自己の意見を出せと言われても、

それは無理な話です。

うまく人には伝えられない、自己主張できない人になっているのです。

そんな中で、SNSという空間では、

相手が不特定なので自分自身を吐き出すことができる。

SNSは匿名性があるので、そういう人がますます集まってくるわけです。

そうすると、心理学的に「リスキーシフト」という言葉が、

あるのですが、匿名性がある中で、どんどん考えが偏っていく。

そして、「私みたいな人がこんなにたくさんいる」と同調し、

気持ちがさらに膨らんでいく。

こうしたことが若者のメンタルにも影響していると思います。

 

Adoさんの曲「うっせぇわ」と尾崎豊さん・チェカーズの

1980年代のヒット曲「15の夜」・「卒業」・「ギザギザハートの子守唄」とを対比し、

今の若者は鬱憤の晴らし方がより内側にこもり出していると指摘したい。

 

内側にこもると、

次に「どのように表現して良いのか理解できないので、更にうちにこもる」

これを繰り返すことによって精神疾患に結びつく可能性は大きい。

 

 

そして、「うっせいわ」の歌詞にも注目、

”だったら言葉の銃口を その頭に突きつけて撃てば”

など、攻撃的な内容が多いのです。

 

尾崎豊さん・チェッカーズも、身体で表現していることを歌詞にしています。

(勿論、歌詞だけでしょうが・・・)

「それくらいの憤りがあるだろ?」と言わんばかりですが、

Adoさんの「うっせいわ」は単に言葉の暴力を心から吐き出しているだけで、

対面的に「吐いた言葉」ではないでしょう。

 

全ては、思考の中で考え、訴え、文句をいい、

「うっせいわ」と心の中で叫ぶ。

現代っ子らしい感覚の歌ですが、

やがて、自己表現できない自分に「どうしていいのか分からない」という

問題が生じてくるという見解に変わりはありません。

 

どの歌手も悪くないし、誌も世相によって繁栄されるものが異なります。

 

しかしながら、Adoさんの「うっせいわ」は、

際どいラインを攻めていると同時に、

私達の知らない年代の考え方を教えてくれているのだと思っています。

 

 

 

 

 

今日は、この辺で失礼します。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

心を和らげる相談室 HEART      代表   杉野 茂広

 

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